弁護士コラム

基地の町で暮らす

那覇オフィス所長 神谷誠人

1 軍隊に翻弄されてきた基地の町・北谷

2022(令和4)年1月、那覇オフィスの開設に伴い、沖縄県中頭郡北谷町に移住した。
北谷町から那覇市内までは距離にして16km、自動車通勤である。
「職場に近い那覇に住めばいいのに」という声をよそに、「沖縄にすむなら北谷しかない」とはなから決めていた。弁護士登録以来34年間(当時)、嘉手納基地爆音差止訴訟に関わり続けてきたので、「沖縄の基地事情を肌身で感じるなら北谷しかない」と思っていたからである。

北谷町は、沖縄本島中部位置する面積13.91㎢、人口約28,900名の町である。西は全面的に東シナ海に接し、北は戦後、北谷から分村した嘉手納町に接し、東は復帰前にはコザと呼ばれた沖縄市に接し、南は普天間基地のある宜野湾市に接している。
戦前、北谷村は、美しい海岸と県内有数の田園地域があったことから、農業、行楽の中心地であり、西海岸沿いには那覇と北谷を結ぶ軽便鉄道が走っていた。
ところが、太平洋戦争末期である1944年7月、「絶対国防圏」としていたマリアナ・パラオ諸島における戦闘で日本軍が大惨敗を喫したため、日本軍は沖縄を本土防衛の最後の拠点とさだめ、民間地を接収し基地を建設していった。北谷においても、日本軍は平坦で広大な田園地帯に目をつけ、民有地を半ば強制的に接収して日本陸軍「中飛行場」を建設した。
1945年4月1日、米軍は、読谷村から北谷村にかけての西海岸から沖縄本島上陸を開始した。米軍は、上陸と同時に占領を開始し、侵攻の拠点として次々と基地を建設していった。
「中飛行場」も、またたく間に米軍によって占領され、米軍の日本本土空爆の拠点として利用された。戦後も米軍は占領を続けたばかりか、さらに拡張工事を行って2本の4000m級の滑走路を建設し、極東最大の米空軍基地「嘉手納基地」を建設したのである。
北谷では、嘉手納基地の他、キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター)も建設され、その後、一部が返還されてきたものの、現在もなお、北谷町における米軍施設占有率は51.5%である。


①自宅付近のアラハビーチ

私が部屋を借りている北谷町の北前地区も、キャンプ瑞慶覧の一部が1981年に返還された場所であり、ハンビー飛行場跡地でもある。(*写真①)
北谷町の美浜地区から北前地区にかけての西海岸地域は、戦後35年以上も米軍施設として占有され続けていたことと、米軍施設に奪われた土地を補うため海岸を埋め立てた土地が多いことから、古くからの「地元住民」は少なく、他地域からの転入者、米軍人・軍属とその家族、県外からの移住者が多くを占めている。

2 在沖米軍基地に喘ぐ住民

東に嘉手納基地、南に普天間基地がある北谷町での暮らしは、米軍機騒音の中での暮らしと言っても過言ではない。


②美浜アメリカンビレッジ上空の米軍機

嘉手納基地の米軍戦闘機・大型機は、着陸の寸前で離陸する「タッチ・アンド・ゴー」という訓練をくり返すため、住宅上空を何度も旋回する。(*写真②)
普天間基地のヘリコプターは、4階の窓から機体が確認できるほどの低空飛行で長時間の飛行音が続く。
私の部屋では、朝の情報番組やNHK連続テレビ小説が始まる朝8時頃から、嘉手納基地から米軍機が飛び始める。飛行コース直下で100㏈を優に超える強大な騒音は、多少離れた地域でもテレビや会話が中断されるほどの音量である。
夜は、普天間基地に戻るヘリコプター、オスプレイが、報道ステーションが放映されている午後10時から11時頃にかけて通過していく。戦闘機と異なり低い不快な音が長時間続く。テレビの音声が遮られ、一日の終わりを安らかに迎えたい時間帯を奪われる。

基地の町での暮らしは、爆音被害だけでない。浄水場の水源である川や地下水から、人体への有害性が指摘され、全世界で使用が禁止・廃止されているPFOA・PFOS(有機フッ素化合物)が高濃度で検出されており、これは米軍基地内で使用される洗浄剤・消火剤に由来することが疑われている。米軍は基地内の立ち入り検査を原則認めないことから、汚染原因は霧の中であるが、水道水は飲まず、飲料水を購入する人が多い。

さらに、米兵による犯罪も後を絶たない。昨年から今年にかけて、米兵による性的暴行事件が5件も発生し、しかも、日米両政府がその事実を秘匿し、沖縄県と共有されていなかったことが明らかとなった。軍隊の本質は、敵を破壊し、殺傷することによって、その任務を遂行するところにある。そして、現在、在沖米軍が想定する敵は、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国というアジア民族系国家である。アジア人を殺傷・破壊する教育を受けた米兵が、同じアジア人である日本人を蔑視・軽視したとしても不思議ではない。米兵犯罪の多発は、まさに軍隊の凶暴性と表裏一体となった現象である。だからこそ、米軍・日本政府はその事実を秘匿しようとするのではないだろうか。
軍事基地の凶暴性・危険性に囲まれ、窒息しそうになり、喘ぐ日々を過ごさなければならない。

3 煽られる「脅威」「緊張感」

2022年12月、岸田内閣は、「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」、いわゆる安全保障関連三文書を改定した。
今回の改定の主眼は、中国・北朝鮮の脅威を口実に、「敵基地反撃能力」を備えるための軍備・装備の充実拡大を推し進めるところにある。
政府は、「敵基地反撃」は、武力行使の新三要件に則って行われると説明するが、ここでは、日本と密接に関連する他国に対する武力攻撃が発生した場合でも武力行使は可能であるとされ、また、「武力攻撃の発生」とは「武力攻撃に着手した段階」も含まれると説明されている。例えば、日本と関係の深い米国に対して武力攻撃が行われる状況が発生したら、日本が敵基地を攻撃することができるのである。すなわち、日本は、不戦の決意をした平和憲法を脱ぎ捨て、「戦争をする国」へと変容してしまった。
そして、この安保関連三文書の改定と相まって、九州南端から台湾へと連なる南西諸島における軍備増強、いわゆる「南西シフト」が押し進められている。


③勝連駐屯地  ④宮古島・ミサイル配備反対のノボリ


⑤陸自石垣駐屯地


⑥陸自与那国駐屯地

沖縄では、本島中部の陸自勝連駐屯地に「地対艦」ミサイル部隊を配備(*写真③)、宮古島にも陸自駐屯地を開設し中距離「地対空」誘導ミサイル部隊を配備(*写真④)、石垣島にも陸自石垣駐屯地を開設し中距離「地対空」誘導ミサイル部隊を配備(*写真⑤)、与那国島には与那国駐屯地を開設し沿岸監視隊を配置した(*写真⑥)。
また、在沖米軍基地に関しても、牧港補給地区の倉庫群が嘉手納弾薬庫へ移設され、嘉手納基地内の騒音軽減のため使用廃止した駐機場跡に新たに巨大防錆整備格納庫の建設をする計画が進められており、本島中部への基地機能の集中と増強が進められている。


⑦日米合同訓練反対集会

敵基地反撃能力が自衛権の範囲であるならば、相手国にとっても「敵基地反撃能力」を備えた日本の基地は自国の安全の脅威となり、それを攻撃破壊することは「自衛権の範囲内」の正当行為となる。つまり、沖縄の自衛隊基地や米軍基地は、相手国からの標的となるのである。(*写真⑦)
そして、恐怖心・警戒心が向けられるのは、仮想敵国だけではない。2021年に成立し、2022年9月施行の「重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律」(重要土地規制法)では、防衛施設等の重要施設の機能阻害を防止する目的で、重要施設周辺概ね1kmの範囲を、注視区域または特別注視区域と指定し、注視区域においては土地建物の利用状況について、関係行政機関や関係地方公共団体の長に情報提供させ、土地等の所有者に報告・資料提供をさせることができるとし、特別注意区域においては、土地建物の取引の前の報告をさせることができるとした。すなわち、防衛施設等の重要施設の機能阻害行為の防止のため、周辺住民も監視対象とされるのである。
政府は、近隣諸国の脅威を強調し不安を煽り、「国民を守る」として軍備増強を進めている。しかし、生活圏内で、軍事施設が次々と整備拡張され、迷彩服を着た軍人が闊歩し、兵器・軍事物資を輸送する軍用車両が頻繁に横行する環境は、今にも戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖心をかきたてられるだけで、自分が国から守られているという感覚は全く感じない。

4 沖縄は終戦を迎えたのか?

6月23日、沖縄では、戦後79年目の「慰霊の日」を迎えた。
例年、民間人・軍人、国籍、敵味方を問わず、沖縄戦の犠牲者を悼み、不戦の決意を新たにしてきた。
しかし、今年の「慰霊の日」は、身近に迫る戦争を阻止しなければならないという強い現実的危機感・悲壮感に包まれていた。


⑧佐喜眞美術館


⑨佐喜眞美術館外観

沖縄を訪れる機会があるなら、ぜひ、佐喜眞美術館(宜野湾市)に行くことを勧める。(*写真⑧⑨)
佐喜眞美術館には、丸木位里・丸木俊の共作による「沖縄戦の図」が常設展示されている。丸木夫妻は、沖縄戦に関する多数の証言と文献をもとに、人間を心身ともに破壊する戦争と軍隊の本質を克明に描出している。

「沖縄戦の図」の画面に描出された戦争の狂気は、決して過去のものではない。今まさに、自分の背後に迫っていると感じる。
基地のある沖縄で暮らしはじめ、沖縄には戦後はあったのか?という思いが胸を押しつぶす。
来年以降、どのような「6月23日」「8月15日」を迎えるのか?自分が沖縄に移住した意味を自問自答する毎日である。

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