弁護士コラム

沖縄本島・離島におけるハンセン病回復者支援への取り組み

那覇オフィス所長の弁護士 神谷です。
2023年7月7月、沖縄・宮古島の地元紙に「ハンセン病支援を報告 ソーシャルワーカー配置」(宮古新報)、「ハンセン病回復者支援でSW設置 厚労省市長に報告、協力要請」(宮古毎日)、という記事が掲載されました。

沖縄・宮古島へのソーシャルワーカー配置実現

掲載日の前日、ハンセン病問題のうち、社会復帰支援・社会内生活支援策及び偏見差別解消にむけた啓発活動を所管する厚生労働省健康局難病対策課の箕原課長が、宮古島市長を訪ね、社会で生活するハンセン病回復者と医療機関・介護事業者とをつなぐ支援を担うソーシャルワーカー(SW)を、今年度から宮古島に常勤職員として配置することを報告するとともに、市に対して、回復者支援への協力を求めたことが、地元紙で大きく取り上げられたものです。

沖縄県は、社会内生活を送るハンセン病回復者(療養所を退所した退所者及び療養所に入所しなかったが隔離政策時期に発病したため様々な被害を受けてきた非入所者を言い、以下「退所者ら」といいます)の人数は、全国の半数以上を占める約500名と言われています。にもかかわらず、ハンセン病特有の後遺障害に対応した医療機関や介護制度は不十分であり、また多くの退所者らとその家族はハンセン病に対する偏見差別に苦しめられています。

このような現実の中、退所者らが安心して、医療や介護を受けることができるよう、親身になって相談にのり、手続的あるいは精神的サポートをしつつ、医療機関・介護事業者へつないでいく、SWの役割は極めて重要です。沖縄地域、とりわけ宮古島等の離島では、このようなSWの配置と拡充は、長年の課題でした。
私は、沖縄県ハンセン病問題解決推進協議会(2022年設置)の生活支援部会部会長として、沖縄の退所者らの医療・介護等の生活支援問題に関わることができ、また宮古島市長訪問に同行することができました。

ハンセン病隔離政策と社会内生活を送る回復者の置かれてきた状況

このSW配置実現の意義を理解してもらうため、まずは、ハンセン病患者隔離政策とは何だったのか、また社会内で生活するハンセン病回復者はどのような状況におかれてきたのか、を説明します。

1907年、法律40号「癩予防ニ関スル件」の制定とともに、ハンセン病患者隔離政策が始まりました。根拠法は、「癩予防法」(1931年)、「らい予防法」(1953年)と改称されましたが、患者隔離政策は、1996年のらい予防法廃止まで継続されました。

日本におけるハンセン病患者隔離政策の特徴は、全ての患者を離島や僻地に設置された国立癩療養所13施設及び私立癩療養所3施設に生涯隔離する(終生絶対隔離)というものでした。この終生絶対隔離を推進するため、国は、戦前は、ハンセン病が恐ろしい伝染病であると喧伝して市民の恐怖を植え付け、ハンセン病患者が一人もいない地域にすることを謳った「無癩(らい)県運動」を展開しました。そして、市民の通報等によって患者が発見されると、警官や役人は、直接的な強制力を行使して患者を療養所に収容していきました(いわゆる「患者狩り」)。戦後、日本国憲法が制定され、さすがに国は暴力的手段による入所強制はできなくなりましたが、「無癩県運動」を継続し「恐ろしい伝染病」といった偏見差別意識を市民に植え付けるとともに、ハンセン病治療をハンセン病療養所に限定し、在宅治療を認めない医療体制をとすることで、ハンセン病患者が社会で生きていくことができないようにして、患者が自ら療養所に入所しなければならないようなシステムを築いてきました。

先に1986年まで患者隔離政策が継続したといいましたが、終戦後、1972年5月までアメリカの統治下にあった沖縄においては、本土とは若干異なる経緯をたどります。

すなわち、1945年沖縄上陸した米軍は、当初、米兵の風土病感染防止の観点から日本のハンセン病患者隔離政策を引き継ぎました。しかし、既にハンセン病治療薬が開発されていたうえ、療養所運営費用削減という財政上の要請から、アメリカ統治下の琉球政府は、1961年、軽快退所及び在宅治療を認める「ハンセン病予防法」を制定しました。その後、沖縄本島、宮古島、石垣島に在宅治療を可能とする診療所が1施設ずつ設置されました。このため、沖縄では、退所者らの人数が他府県と比較して格段に多いのです。

しかし、戦前戦後を通じての隔離政策が県民に植え付けたハンセン病に対する偏見差別意識は根強く残り、また、それを解消する対策は一切講じられませんでした。このため、退所者らは療養所に隔離されていないものの、社会での偏見差別に晒され、塗炭の苦しみを受け続けてきました。

1972年5月15日、沖縄の施政権は、アメリカから日本に返還されたものの、ハンセン病政策に関しては、基本的には、本土の「らい予防法」が適用されることとなり、療養所入所中心政策の性格が強まりました。復帰前の退所や在宅治療は事実上認められたものの、日本全体が終生絶対隔離政策を基本とする以上、「恐ろしい伝染病」との偏見を解消するための方策は一切採られず、根強い偏見差別は温存されたままでした。また診療所も在宅治療より新患者の発見と療養所入所促進としての機能が中心となり、新患者数の減少とともに、宮古島、石垣島の診療所は閉鎖され、沖縄本島の「ゆうな協会診療所」のみとなりました。

このように、日本のハンセン病患者隔離政策下においては、例え療養所に隔離されていなかったとしても、偏見差別や在宅治療制度の欠如によって、極めて厳しい社会生活を送ってきたのです。

このような状況は、1996年のらい予防法の廃止、2001年熊本地裁国賠訴訟勝訴判決及び確定(国の控訴断念)後、多少、改善はされましたが、90年近く及ぶ患者隔離政策が市民に植え付けた偏見差別は容易に解消されるはずもなく、また、療養所医療中心政策は社会内の専門医不在を招きました。

そのため、退所者らは、ハンセン病や特有の後遺症に詳しい専門医を見つけることができず、一般医療を受診しても医師から「わからない」「療養所に戻った方がいい」と事実上の受診拒否をされるケースも起きました。また、偏見差別を恐れて、ハンセン病の既往症があることを言い出せないため、医療機関を受診すること自体を断念してきた退所者も多々います。

退所者らは高齢化し(現在平均年齢は74歳)、介護の需要が高まっていますが、介護の世界でも、退所者らを取り巻く環境は厳しく、ハンセン病自体は何十年も前に治癒しているにもかかわらず、後遺症を理由に高齢者施設への入所を断られたりする、また、自ら病歴を隠すために地域包括支援センター等の介護事業者を利用することを避けているといったケースもあります。

沖縄県ハンセン病問題解決推進協議会の設置と生活支援策の具体化へ

沖縄の退所者らは、2018年、沖縄ハンセン病回復者の会を立ち上げ、沖縄県に、ハンセン病偏見差別の解消とハンセン病回復者への生活支援策を実現する協議会の設置を求めてきました。

粘り強い要請活動の結果、2022年、玉城デニー沖縄県知事は、偏見差別解消のための普及啓発策と回復者への生活支援策の実現を目的とする「沖縄県ハンセン病問題解決促進協議会」(座長:森川剛恭琉球大学教授)を設置するとともに、同会内に普及啓発部会と生活支援部会を置きました。

普及啓発のみならず、生活支援策を目的とした協議会は、他の自治体には例をみないものであり、自治体の取り組みとしては、画期的なものといえます。
そして、私が部会長をつとめる「生活支援部会」において、退所者らの要望と解決策をとりまとめ、厚生労働省難病対策課と交渉してきた結果、前述のように宮古島へのSWの常置を含むSW等の専門相談員の拡充が実現されることになりました。

SWとは、「生活相談員」と呼ばれる職種で、社会福祉士、精神保健福祉士、社会福祉主事が担うことが通常です。具体的には、親身になって退所者らの相談に対応し、その健康状態や心情に即した協力医療機関や介護事業者を探し出し、つなげていくことを役割とする仕事です。

これにより、受診拒否・介護拒否、知識・技能不足の不安を解消し、退所者らが安心して医療機関や介護事業を利用することができる道が開けたことになります。
沖縄退所者らへの生活支援策は、緒についたばかりですが、大きな一歩であるといえるものです。

ハンセン病国賠訴訟、ハンセン病患者家族国賠訴訟は、訴訟としては一定の解決を見ましたが、根深い偏見差別や支援策の欠如といった「患者隔離政策の遺物」は未だ頑強な鱗のように、社会にこびりついたままです。これを一つ一つ剥がしていくことが我々の責務だと考えています。

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